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歴史

セルビア共和国が位置するバルカン半島は中東欧に紀元前7000年から3500年にかけて存在していた古きヨーロッパ社会の中心で、その文化の痕跡はセルビアのベオグラード近郊のヴィンチャやスタルチェヴォ、ドナウ沿いのレペンスキ・ヴィルで見ることができます。

 
紀元前3世紀からこの地域はケルト族、ローマ人、その他様々な民族に支配され、5世紀終わりごろにはヴィザンチンの支配に屈することになります。この頃、中東欧部に住むインド・ヨーロッパ語族のグループである半遊牧民族のスラブ人が移住が始めました。セルビア初の国家は西暦850年頃、セルビア人のキリスト信仰拡大と、チリリツァ(キリル文字)と呼ばれるセルビア文字の誕生に影響を及ぼしたヴィザンチン支持のもとで建国されました。チリリツァはギリシャアルファベットに基づき、スラブ言語に適応させた文字なのです。
 
セルビアの歴史上、その系統がセルビアの王であり、1217年からラシュカ通りに構えられていたネマニッチ家が重要な位置を占めています。初めて法律を制定した9代目であるドゥシャンが統治していた14世紀、ネマニッチ帝国はもっとも拡大しており、現在のギリシャ、北マケドニア、アルバニア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部と北部を除いたセルビアを統治していました。
 
1219年、独立したセルビア正教会がジチャ修道院に造られ、のちにコソヴォのペーチに中心をおく総主教に成長しました。これが影響してセルビア人が信仰面で統合され、現在世界遺産となっているソポチャニ(1260年建造)やデチャニ(1327年建造)のような、多数の教会や修道院が建設されました。
 
14世紀からは現在のセルビア共和国の一部がトルコに占領され、19世紀末まで続いたバルカンのトルコ支配(オスマン帝国)が始まりました。主な戦いとして1389年6月28日のコソヴォ紛争があり、セルビア人は数々のセルビアの叙情詩でも歌われているような大敗を記したのです。
 
15世紀中頃以降、国の首都がラシュカからベオグラード、そして北部のスメデレヴォに移されたとき、セルビア人はトルコ帝国の一部となりました。この5世紀に渡るトルコの文化と言語の影響は果てしなく大きいものです。最もよく表れているのは食事でしょう。しかしながらトルコ人の拡大はすんなりとはいかず、何世紀にも渡り時には大規模な移住を伴う暴動が発生しました。
 
19世紀のカラジョルジェ(黒いジョルジェの意)のような反乱の指導者も幾人かセルビアの民族詩に歌われています。そして1815年にトルコ人がセルビア北部から追放され、独立した国家が始まりました。
 
18世紀からはセルビアと当時オーストリア・ハンガリーだったドナウ川の向こう側の移民たちとの交流が強化し始めます。19世紀中には学者ヴーク・ステファノヴィッチ・カラジッチの功績により、セルビア文学言語と多くの記録書物の作成がなされました。
 
1912年と1913年、セルビア共和国はブルガリア、ギリシャとともに、トルコ支配から完全に逃れ、領土問題を解決するために二つのバルカン戦争に参加。そして1914年から1918年まで第一次世界大戦で戦い、その後セルビア人クロアチア人スロヴェニア人王国が建国されたのです。1929年にはユーゴスラヴィア王国に名称を変え、同年に在日本名誉領事として初めて、上山英一郎氏(大日本除虫菊株式会社の創業者)が任命されました。
 
アメリカやフランス側として戦った第2次世界大戦以後、ユーゴスラヴィア社会主義共和国、のちのユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国がチトー指導の下建国されました。この頃の特徴としては、冷戦時代は非同盟国とのつながりと独立政治への望み、50年代、60年代には経済と観光の急速な発展があげられます。
 
その後1991年から1992年にかけてスロヴェニア、クロアチア、マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナが次々と独立し、残るセルビアとモンテネグロがユーゴスラヴィア連邦共和国を発足させます。
 
2000年10月5日のミロシェヴィッチ政権崩壊に伴いモンテネグロは独立への動きを加速させましたが、この独立問題に3年間の猶予期間を置き、国家形態を変える形で連合国家セルビア・モンテネグロとなりました。
 
そして2006年モンテネグロで独立を問う国民投票が行われ、独立推進派が勝利したことで2006年6月5日、セルビア・モンテネグロを始めとする旧ユーゴスラヴィアの継承国としてのセルビア共和国が誕生したのです。

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